自分の名前を否定する事は愛の創造を否定している

今回の内容はかなりの人に当てはまるかもしれません。

というのも、自分の名前の事だからです。

私が今まで会った人間の5人に一人は自分の名前に対して何らかの嫌な印象を持っていました。

これはあまりにも当たり前過ぎて見過ごしてきた事の一つです。

それを今回、考えてみる事にしました。

まず、自分の名前というものは、自分が考えたものではないわけです。

それは当たり前に分かる事だと思います。

では、あなたが生まれ、意識がはっきりしてから、目にするものほぼ全てに何かしらの名称が存在します。

この事について、あなたは受け入れずに否定してきましたか?

他にも、他人の名前について否定的に捉えましたか?

大抵の人は否定というよりも、そんな事を考えた事もないと思います。

それは、当たり前に存在し、そこに存在していたからです。

その創造に関与していないという言葉が正しいのかもしれません。

つまり、自分が一切かかわらずに、他者や何かによって創造、建造、生み出された物であるという事です。

では、自分の名前に戻って考えてみましょう。

はじめにも言いましたが、自分の名前を自分で決めた人はいません。

つまり、名前とは自分の家族からもらったものです。

父母にもらった人、祖父にもらった人、親戚にもらった人など、自分ではないすでに存在した誰かにもらった名前だという事になります。

そして、その名前をもらうという前には、この世界に存在していないという事実があるわけです。

自分が存在し始めるキッカケは、男と女が愛し合うことから始まります。

この愛し合う行為がなければ、決して存在する事はできません。

例外として、人工授精という事もありますが、これもまた愛し合い、二人に子供が欲しいという意思があるからこそ、人工授精を行うのです。

そして、その次のステップとして、名前というものが必要になります。

人生において、二番目のステップといってもいい出来事です。

この人生において二番目に決まった出来事、名前の確定。

これを否定するという事は一体どれだけの問題をはらんでいると思いますか?

そんなに大したことではないと思いますか?

いえ、そんな事はありませんよね?

誕生する事ができたという事は、親が愛し合う事によって、自分に命をもらったという事です。

そして、名前とはその愛し合った結果、生まれた人間に愛を込めて与えた名称だからです。

不幸になればいいと思いながら、名前を決めたと思いますか?

死んでしまえばいいと思って、名前を決めたと思いますか?

そんな事は決してありえません。

幸せな人生を送ってもらいたい、こうなって欲しいという親や家族の願いが元になって、名前は創造されたのです。

そうです、名前が決まるまで、悩み、相談し、愛を込めて創造したのです。

つまり、自分の名前を否定するという事は、そういった親のおもい、家族のおもいを否定したという事実なのです。

つまり、愛の創造を否定したという事なのです。

そういった人が、世の中に愛を広める事ができるとおもいますか?

私は思いません。

神の世界に向かうためにはそう言った、基本的な部分を見つめ直すところから始めなければならないのです。